LOHASブログ
再魔術化のポリティクス
「エイジェンシー」としてのロハス(LOHAS)層の考察
 第六章 再魔術化のポリティクス

6‐1.再魔術化のポリティクスー戦略論として 
 
市民社会の存立の原理としての利害の普遍的相克性は、欲求の禁圧と制約によってではなく、欲求の開放と豊富化によってはじめて原理的にのりこえられうる。……解放されたゆたかな欲求を、これらの人びとの目にさえ魅惑的なものとして具体的に提示すること。生き方の魅力性によって敵対者たちを解放し、エゴイズムの体系としての市民社会の自明の前提をつぎつぎとつきくずすこと77

 次に検討しなければならないのは、健康問題や異文化接触などの身体知による再魔術化は「参加する意識」を持たない他者に対して実際に有効であるのか、という問題だ。例えば、LOHASアカデミーでは米国のボールダーでの研修を経ることによって、卒業資格であるLOHASコンシェルジェを得る制度になっている。しかし、健康問題はおろか異文化接触による環境道徳の内面化は一般的な戦略論としては限定的な意味しか持たないと考えざるを得ない。身体レベルに発する反抗が一定の社会的レベルに達したときには、新たな主体によるポリティクスの在り方が要請され、模索されなければならないだろう
78。それでは、「参加する意識」を持たない人間に関して我々は如何に働きかけていけばよいのだろうか。

 インフォーマントが共有していた問題意識は、「如何に他者のライフスタイルを変容させるか」であった。ここで問題となるのは、自分のライフスタイルが如何に「再魔術化したのか」ではなく、「如何に他者を再魔術化させるか」といったポリティクスの問題である。

 見田は、主観/客観のズレを克服し、他者における「外部問題」を内部化する手段として、情報の三つの様相を挙げている
79。情報の三つの様相とは、(1)認識情報(認知情報。知識としての情報)、(2)設計情報(指令情報。プログラムとしての情報)、(3)美としての情報(充足情報。喜びとしての情報)である。

 まず第一に、認識情報として、環境リスクを伝達することが必要であろう。地球環境問題を認識情報としてインプットしても、社会的ジレンマから環境配慮的行動へとつながらないのに対し、環境リスクという認識によって、環境問題を個人にとって自己の健康の問題として内部化することができるだろう。実際に、インフォーマントも「ロハスの大きな方向性」として「安全・安心な社会」を挙げている。

 第二に、設計情報として、「ロハス」というライフスタイルを伝達することが重要であろう。設計情報とは、現代社会に対する対抗的な形態を、個々の製品から全社会的、全世界的なシステムの構想に至るさまざまな水準で、設計するための情報である
80。インフォーマントはロハスの用語の意義として、「ライフスタイル自体をまわりに広めることができるようになった」(HN)と述べている。

 ここで、「ロハス」を一義的に定義するのではなく、空虚なシニフィアンとして扱うことの意義がある。「空虚なシニフィアン」とは、差異のシステムとしての意味作用全体の限界を指し示すようなシニフィアンなのであり、それ自体は何の意味も持ちえないシニフィアンである
81。世俗化した現在において、空虚なシニフィアンを最終的に埋めるものが決して現れず、ヘゲモニー競争が無限に続くが、シニフィアンに代表されることによって、初めて断片化されたアイデンティティがつながり、政治的な力を持ちうる側面もあるのだ82。インフォーマントも、「LOHASは十人十色の解釈」(JH)、「人によって全体的に変わる」(藤崎)と述べている。

 ライフスタイルは個々人の選択といっても、それは社会システムのなかに埋め込まれているのであり、そのため純粋の個人の選択肢が存在するのではない。ライフスタイルの転換のためには、いま構造化された選択肢を構成している社会システムそのものの変革に変わる対抗的ライフスタイルを総合的な構想として提示する必要があるだろう
83

 また、この意味で、再魔術化のポリティクスは、境界線の政治ではなく、包括の政治を目指すものである。インフォーマントに共通して見られた意見として、「エコロジーはこうしなきゃいけないというイメージ(MT)」、「エコロジーのあれがいい/これがいけないという発想は意味がない」(藤崎)、「エコばかり考えると生活が大変」(JH)などの従来型のエコロジーへの反発があった。それに対して、ロハスとは、「より緩やかでオープンな形での提案型」のポリティクスを目指すものとしてイメージされる。インフォーマントの意見として、「できることからやって、目標を高く設定するよりも徐々に広めていく」(JH)、「ロハスを伝える時に、『それって疲れない?』と、思われたらダメで、手軽さが重要」(JH)、「LOHASは、現実的に何をやれるのかを考える」(藤崎)などの話が聞かれた。つまり、ライフスタイルという統合認識として、「健康と持続可能性を志向するライフスタイル」に向けた日常的ポリティクスを展開するために、「ロハス」の意義を見出すことができるだろう。

 第三に、美としての情報として「ロハス」を提示するという戦略が考えられよう。美としての情報とは、自己目的的に幸福の形態としてあるものである
84。「環境危機の唯一の解決策は、環境破壊的でない生活の仕方をとおして、自分たちは今よりも幸せになるのだという洞察を、人びとがわけもつこと」85なのである。それは、環境配慮消費が、「消費者行動を通じて、当人にとって望ましい感情を経験する快楽消費」86とならなければならないということである。「消費社会を……何度も危機から救い出すのは、美学であって倫理ではない。」87のだ。

 ここで、消費手段の再魔術化を再評価する必要性が出てくるだろう。第四章で見てきたように、消費手段の再魔術化は、卓越性の感じられるような豪華なスペクタクルによって購買意欲をかきたて、それによって実現される消費者がパフォーマーの魅力に身を委ねさせることに成功させることができた。『ソトコト』誌による環境ファッションとしてのライフスタイルの提案とは、「記号」の卓越性を得られるような美的で魅力的なものであったといえよう。この点で、インフォーマントは『ソトコト』を中心とした「ロハス」の普及に対して、否定的態度をとるのではなく、承認し積極的に活用しようとしている面もある。実際にインフォーマントの中には、「ソトコトががんばってくれないと盛り上がらない」(山口)、「ロハスは、違いが強さになるライフスタイルだ」(山口)、「(LOHASアカデミーが)六本木だから来たという主婦もいる」(國田)、「ヤッピー
88は虚しいから、ヤッピーの次はロハスが(流行として)くる」(井出)、「初めての人は楽しく、が重要」(國田)などの声も聞かれた。消費手段の再魔術化とは、「合理化し無意味化し無価値化した世界の中で再び意味と価値を求めてさまよう大衆に対して、消費を通じて繰り返し繰り返し意味と価値を与え続けていくことであり、さらにより強い意味と価値を与えるために『魔術の世界』を創造し、そこに住まわせ、そこに閉じ込めて消費をさせ続けること」89であり、記号による意味的創造の過程なのである。

 このように、ロハスを「かっこいい」ファッションであり、それ自体が自己目的化した「幸福」であるものとして提示していくことは、他者にライフスタイルを拡大するために重要な要素となるであろう。ただここで、「記号の差異」の追求から生じる快楽の創造だけでは、長期的にロハスをライフスタイルとして定着させることはできないだろう。なぜなら、消費者は「消費手段の再魔術化」が演出するスペクタクル化された記号にすぐに慣れて飽きを感じてしまうものだからである。ある流行が「定着的流行」となるためには、消費者が理性的判断により、「商品の意味性、記号性の中に含まれた品質内容に対して満足する」ことが必要なのだ
90。インフォーマントも、「(最初は楽しいことが重要だが)これがずっとだと困る。知っている人に対しては深く教えていきたい」(國田)と述べている。手段としての再魔術化を用いながら人々を惹きつけるだけでなく、そこに如何に新たな合理性を付与していけるのか、に再魔術化のポリティクスの是非が問われているだろう。

私は日本のバブル経済崩壊後の10年は「失われた10年」ではなく、新しい生活価値探求の10年だったと考える。「ボランティア」や「グリーン購入」「スロー」などのキーワードから新しい価値観が生まれ、それを結ぶ形でロハスという大陸が形成された。「私が求めていたのはロハスだったと、やっと分かった」という人とよく出会う。従来の環境保護活動は「??をしてはいけない」という制約的な側面があったが、ロハスは美や健康、家族の幸せなど利己的なところから始まる。しかし、ある人も言っていたが、社会を持続可能な方向に転換するには、1人のエコロジストを作るより100人のロハス層を作るほうが効果が大きいかもしれない91

77:真木悠介(1977)前掲書、26頁。
78:山之内靖(2004)『再魔術化する世界』御茶の水書房、43?44頁。
79:見田宗介(1996)『現代社会の理論』岩波新書、151?152頁。
80:見田宗介(1996)前掲書、151頁。
81:杉田敦(2005)前掲書、103?104頁。
82:杉田敦(2005)前掲書、105?106頁。
83:鳥越皓之(1998)前掲書、98頁。
84:見田宗介(1996)前掲書、151頁。
85:見田宗介(1996)前掲書、163頁。
86:堀内圭子(2004)『〈快楽消費〉する社会』中公新書、40頁。
87:ジークムンド・バウマン (1998)「労働倫理から消費の美学へ」山之内靖・酒井直樹編『総力戦体制からグローバリゼーションへ』平凡社、217頁。
88:「ヤッピー」とは、高級ファッションを消費する層である。現在の日本では、六本木ヒルズ族などがそれに当たるだろう。
89:三浦展編著(2006)『下流同盟』朝日選書、23頁。
90:藤竹暁[2000]『消費としてのライフスタイル』至分堂、33頁。
91:朝日新聞/2005/11/14/東京朝刊/26面


6‐2.ポリティクスの陥穽と限界 

 ここで、再魔術化のポリティクスが如何なる陥穽と限界を持っているかについて論じたい。
第一に、「政治に参入できる人々の限定性」という限界がある。政治において、「勝負が可能なのは、文化資本、情報資本など、ゲーム参入のチケットが最初から与えられている者に限定される」
92のである。ベック(Ulrich Beck)は「『反科学製品』は『食事に対して敏感な』高学歴で高所得の層の生活を、食事形態から居住形態に至るまで、また病気や余暇の過ごし方まで根本的にことごとく変えてしまうだろう」93と述べているが、特に初期にロハスを実行できるのでは高学歴・高所得層になるだろう。実際に、インフォーマントは「米国において、(ロハスを)中・下流の人がやることは難しい」(津田)と述べている。前述したように、現在、『ソトコト』誌によるロハスも主に都市上流階級をターゲットとしている。よって、我々は「健康と持続可能性」を志向するというスタイルはすべての階層に開かれたものにしていくことがこれから必要とされていくだろう。

 第二に、ロハスの提案に関して、商業主義が自己目的化してしまうという陥穽がある。インフォーマントの中でも、「商標問題などごたごたあって、脱ロハス宣言をしようとした」(國田)などと答えた人や、「(ロハスが商業主義と見られることによって)別のところでロハスをやっている人が危ないと感じて、Wikipediaに批判を書き込んだ」(HN)人もいた。ここにおいて、インフォーマントは一般的なロハス言説を受け入れるだけでなく、批判的に解釈し、自己の意見を新たに展開している。リッツァーの指摘するような「新たな記号の創造による消費者の搾取」にならないためにも、言説の裏にある意図に常に気を配っていかなければならないだろう。

 第三に、健康や環境に強迫的「嗜癖」を持つことの陥穽である。「嗜癖」とは、「単なる日常の行動様式の繰り返しとは異なり、自分自身で制御しがたい強迫行動が、様式化されて実行されるような種類の行為」
94である。インフォーマントも、「健康のための健康ではなく、なりたい自分になるための健康である」と述べている。今よりさらに「健康」になりたいという人々の思いが、適切なレベルを越え半ば強迫観念する「フード・ファディズム」に陥るのではなく、そこから一定の距離を保つことが重要であろう。

 そのためにも、「健康によい/悪い」、「環境によい/悪い」「安全/危険」といった二項対立によって生み出される区別は本質主義的なものではなく、社会構築主義的なものにすぎないという視点を持つことが必要である。これは、「健康・環境によいもの」の客観的存在を否定するものではなく、それが文化的バイアスによって構成され、選択されていることを指摘するものである。つまり、社会構築に関わる権威や権力の存在に目を向けることが重要なのである。そうすることによって、商業主義的に創造された「ガジェット」や健康ブームに踊らされる消費者から逃れ、健康・環境によい商品を自主的に選ぶ消費者へと転換することができるだろう。


92:杉田(2005)前掲書、110頁。
93:ウルリッヒ・ベック(1986)前掲書、50頁。
94:鈴木健介(2005)『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、116頁。








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